自分の弱さを知ろうとしない

競争化社会での弱さ

弱い人間ほど弱い自分を知ろうとしません。そういう人間は、自分の弱さに目を背け、必死に逃げようとします。また無理にでも自分は弱くないと、思い込もうとします。競争化社会では、弱肉強食と言えるかもしれません。誰しもが強さを求めます。

男性の場合は、権力やお金や地位で自分の強さを求めます。いかに誰よりも強く、偉くなれるかで、他人から見られる自分の価値が違ってきます。女性の場合は美貌、美しさで優越感を持たせます。男性が女性に求めるのは、お金や地位だけではなく、セクシーさや美しさであることを女性は知っています。女性の場合は、セクシーさや美しさが強さです。いかに自分が強いか、輝いているかを他者と競います。

また、大人だけでなく、子供も競争社会で生きなければなりません。多くの子供は、親から習い事に行かせられます。水泳にお習字に塾にサッカーにピアノにと、そこでは常に他の子供との競争を強いられます。自然と、子供も力をつけることの重要性を学ばされます。競争を強いられる社会では、誰しもが自然とエリート思考を持つように仕向けられます。

自分の弱さを隠そうとする社会

そのような社会では、強さが求められます。他の人より強いということが、他人に認められる重要な要素です。なので、弱さを見せようとしません。弱さを見せれば、劣等感を抱かせてしまうからです。出世できないかもしれない、いい仕事につけないかもしれない、お金が多くもらえないかもしれない、好きな人と付き合えないかもしれないなど、自分を弱く見せることによる恐怖を感じます。なので、自然と威張ったり、見栄を張ることが多くなります。実社会では、虚栄と見栄が常に漂い、相手を騙すことに着眼点を置かれてたりします。

弱さをジョークで包む

弱さを出せない人が多く、欧米人は弱さをジョークで包み込むのが好きな傾向にあります。真正面から自分の弱さを出しづらいので、ジョークで弱さを包むようにします。ユーモアやジョークが盛んに飛び交う欧米では、弱さもユーモアやジョークに乗せて、カモフラージュされることがあります。

日本人だけでなく、世界的に弱さが出しづらい世の中になっています。少しでも、相手より自分をよく見せようとします。

けれども、本当に信頼できる人には弱さを見せようとします。本当に信用できる人だけ、本当の自分を知ってもらいたいという欲求が生まれます。偽りではない、素の自分を見てもらいたいと思います。人によっては結婚前に全てを打ち明ける人もいます。人は本当は全てをさらけ出したいのかもしれません。けれども、それが今の競争する世の中では出すことができない。大人になるとさらに複雑に世の中が動き、なかなか素の自分を出すことはできません。

寛容さは自分次第

本当に自分の弱さと向き合える人は、柔軟性を持つ人です。ずっと弱さを隠したがる弱い人間のままです。自分の弱さを認めないので、中途半端に突っ張ります。自分の価値観から外れると、排除したがります。他人の価値観に縛られる人は、自分の価値観で考えられず、柔軟性がないので、自分の価値観に合うコミュニティーでしか生きることができません。また、そこでも自分の優位性を保つために、誰かを責めたりします。力を比べるのは弱い人たちです。自分に劣等感を持つ者同士が、競い合います。

本当に自信のある人は柔軟性があります。自分の強さと弱さを知っているので、両方向から自分を捉えることができます。また、人に対しても受け入れる心のゆとりがあり、自分の価値観を持ちつつ接することができます。障害者や老人でも、決して何かが制限されているのではなく、自分の心に柔軟性を持つことができる人は、可能性を広げていきます。定年したから仕事は終わりではなく、常に柔軟性と創造性を持つことで、新たな楽しみや喜ぶが生まれます。

柔軟性を持つ時、相手に寛容になれ、優しくなれます。寛容な社会は相手に求めるのではなく、自分で作り上げるものです。本当の自分と向き合う、自分の弱さと向き合えるとき、自分の中での強さ自信をつかむことができます。そして、人に優しくなれます。自分の人生が寛容ある優しい人生にすることができます。赤ちゃんの時は誰しもが柔軟性を持っていた。けれども、大人になるにつれ柔軟性は姿を隠していきます。寛容な社会にするには、まず自分自信に対して寛容さ、優しさを持つことが大切です。