なにか(何か)を失うことが気づきにつながる
人はなにかを失うことで、初めて気づくことが多くあります。たとえば、自分に近い人間が亡くなったとき、その人への思い入りの大きさを悲しみとともに気づきます。普段はなにげなく暮らしていたのに、亡き人の存在を再確認すると失ったことへの悲しみが一層増してきます。それまで精一杯接していたのに、いざその人が亡くなってしまうと「もっとできたことがあるのではないか」と悲しみにくれてしまうのです。これはしょうがないことです、なぜなら失ったときの悲しみは失ったときにしかわからないのです。
人に対してもそうですし、自分に対してもそうです。たとえば、風邪で病気になり身動きが取れないとき、初めて健康のありがたみがわかるのです。虫歯で歯が痛くなったときも、健康の歯でいるありがたみがよくわかることでしょう。これは何度でも繰り返します。人は病気が治ると病気だったことを忘れ、健康であるのが当然かのように日々を過ごしていきます。しかし、また病気になると健康であったときを愛おしくありがたく思うのです。
病気になることで気づくこと
風邪などならまだしも大きな事故や怪我、病気などにより後遺症が残り、二度と健康な状態に戻れない人はさらに悲しみが増すことでしょう。健康であったときのことを思い出し、失ったことの大きさに初めて気がつきます。人は失うときこそ、教わることが多いような気がします。本当であれば、それまでを満足いくように過ごせたらと思うかもしれませんが、どんなに満足に過ごしていたとしても後悔はするでしょう。ただ、なにかを失うことはなにかを学ぶことのチャンスでもあります。
私たちはなにかを失うことによりなにかを得ているのです。たしかに失ったものが大きいほど悲しみも大きいです。しかし、反面大きな新しいなにかを得るはずです。それは故人へのありがたみであったり健康に対する考え方であったり自分独自の新しい考え方であったり、きっと大きななにかを得るのです。そして、それを糧にまた人生を歩き始めます。失ったものが大きかったとしても、失う前よりいきいき生きられる可能性は十分にあるのです。私たちは失うことで多くのことを学習します。
したがって、失うことは必ずしも悪いことばかりではありません。なにかを失うことはなにかを得る大きなチャンスなのです。だから、勇気ある人たちは人生においてリスクをおかしていきます。失ったときには、新しいものを得られるチャンスです。